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本編後/ネージュマルスルート、「奇跡」エンディング

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 シュンシュンシュン……
 火にかけたポットが沸騰を知らせる。わたしはテーブルに頬杖をついてぼんやりしていた。

 

「幸せ、ってなんなのかな……」
「なぁに、急に」

 

 わたしのつぶやきにフィリが呆れたような声をあげた。形のよい眉がツンと吊り上げられる様子が目に見えるようだ。彼女はあれから随分丸くなったが、そういうところは変わらない。

 

「……あなたと、わたし、ちょっと癪だけどあの馬鹿――そういう日常がここにあるということ。誰も予想もしてもいなかったことよ。これ以上の奇跡はないわ」

 

 コトン、と硬い音がした。ティーカップを置いた音だろう。音はひとつしかなかったので、おそらくわたしの分はない。
 けれど、彼女の声は存外にやさしく、わたしへ届いた。それを感じ取ると目を閉じて、息を吸い込む。脳裏に蘇るのは、かつて失ったこころを取り戻し、少しずつ色づいていく日々。空っぽの自分に温かなものを注いでくれたひとたち。

 

「……そうだね」

 

 ゆっくりと目を開ける。ぼんやりとした光が向こうから指していた。ごくごく一般的な色である茶になった瞳は、もうほとんど意味をなさないけれど、この色こそが、わたしがあの日、役目を果たした証だった。
 わたしが椅子から立ち上がる。するとフィリが少し意識をこちらに向けるのが分かった。それはわたしの瞳が茶になってからこちら、彼女たちの習い癖のようなものだ。

 

「少し、出かけてくるね」
「一緒に行きましょうか?」
「大丈夫だよ、町にはマルスもいるし」
「……そう。気をつけなさいよ」

 

 ありがとう、そういう意図を込めてわたしは少しばかり微笑んで応えた。


 * * *

 

 ――ねぇ、ちょっといいかな?

 

「はぁ? 幸せってなにか?」
「そう。なんだと思う?」

 

 なにかまたおかしなことを言いだした、とでも言いたげな雰囲気だったが、わたしが真剣に問うていることが伝わったらしく、いつも元気に溢れている少年はしばらく唸りながら考えた。

 

「飯が腹いっぱい食えることじゃないか?」

 

 単純明快なそれに、わたしは大きく頷いた。

 

「確かに、お腹がいっぱいになると嬉しいよね」

 

 逆に、お腹が空くと悲しくなる。だから、お腹が空いてるのは幸せじゃないはず。
 なるほど、と納得して少年にお礼を言った。すると、なんてことない、と笑って、少年は友人に呼ばれてその場を去った。


 * * *

 

 ――ねぇ、ちょっといいかな?

 

「え? 幸せってなにか?」
「そう。なんだと思う?」
「うーん、ちょっと難しいね。でも、そうだなぁ……」

 

 リトナは少しばかり考えてから、口を開いた。

 

「たとえば、ふと顔を上げたときに空がきれいだなと思ったり、友達と他愛のないことで笑ったり……そんな、ちょっと視点を変えればどこにでもあるようなものなんじゃないかしら」
「どこにでも……」
「そう! わたしはね、目を閉じたときに感じるお日様の温かさが好き。そんな風に感じるたび、思うの。世界はなんて美しいんだろうって。わたしたちは、なんて愛されているんだろうって……」

 

 彼女の言うことはひどく抽象的で、難しかった。
 でも、わたしはそっと目を閉じた。

 

「……うん。なんとなく、分かるよ」

 

 厳しいことも嫌なことも、忘れたいことも、たくさんある。それでも、世界は、とてもやさしい。わたしたちはみな、愛され、肯定されている。世界は、わたしたちを見捨てない。


 * * *

 

 ――ねぇ、ちょっといいかな?

 

「幸せがなにかって?」
「うん。みんなに聞いてるの」

 

 そう言ったわたしに、クリウは小さく喉を鳴らして笑った。
 そうしてぐりぐりとわたしの頭を遠慮なく満足のいくまで掻き回すと、気のない様子で「そーだなぁ」と言った。

 

「大事なやつが隣にいる。隣で笑ってくれている。それが俺のためなら言うことなし」
「そういうもの?」
「どんな辛いときでも、ただ傍にいてくれるやつがいる。それだけで救われることがある――不思議だよなぁ」

 

 そう言った彼の声には愛しさが滲んでいた。
 彼の隣にいてくれたのは誰か、なんて聞くのは野暮なのはさすがのわたしでも分かった。

 

「ありがとう」

 

 たぶん、こころの一番深いところの秘密のベールをそっと捲って見せてくれた彼に、わたしが言えるのは結局のところそれだけなのだ。


 * * *

 

 帰りは、警備隊の巡回を終えたマルスが迎えに来てくれた。
 幸せとはなんだろう――夕暮れがわたしたちを染め上げる中、まだ考えていた。

 

「そういえば今日は、みんなに『幸せってなに』って聞いてまわったんだって?」
「知ってるの?」
「みんなが噂してた」

 

 そうなんだ、と思った。感情はすべて戻ったけれど、それでも他人より感情の起伏は少ない……らしい。自分ではよく分からない。それに、これでも進歩したほうだ。だって、前はこんな風に考えることもなかったのだから。

 

「ねぇ、マルスは幸せってなんだと思う?」
「俺か? 俺はなぁ……」

 

 マルスは束の間、沈黙した。
 わたしは待った。彼がきちんと答えを出してくれることを知っているから、待つのは苦ではない。数分くらい、今更だ。
 そうしてマルスは、なにかを確かめるようにゆっくりとした口調で話し始めた。

 

「俺は、この一族に不満なんて感じたことはなかった……というより、考えたこともなかったんだ。だって、俺には先見の力はなくて、そんなお役目って言われたって実感はなかった。それに時読みが数百年続いてきてもまだ果たされないのに、自分のときにまさか来るわけないだろうって思ってた」
「うん」
「フィリは、デルマやお袋たちがが死んだのはお役目のせいだって思ってる。強すぎる先見の力は命を削ると言うから。そしてそれは、あいつが言うなら、きっとそうなんだろう」
「……」

 

 呼吸が浅くなる。マルスは半歩前を歩いている。わたしは片方の手で彼の手を取り、もう片方の手で杖をつき、その足音についてゆく。

 

「フィリは瞳の色こそ紫のままだが、もうあまり先が見えることはなくなったと言っていた。――時読みは役目を終えたんだ。予言の一族は、もうどこにもいない」
「……マルス」
「それでいい。それでいいんだよ。俺たちみたいな思いをするやつは、もう、いなくなったんだ」

 

 理不尽で大きな目に見えぬ流れに大切なひとを奪われ、使命のためだけの生を強いられることは、もうない。そう言った彼の言葉に滲む、失ったものへの悲哀が、まるでわたしまで雪崩れこんでくるかのようで、苦しかった。
 だからわたしは、ただ黙って彼の言葉を待っていた。

 

「これから先、俺やフィリの子どもが生まれても、その子どもは時読みじゃない。時読みの血族は高い確率で色持ちとして生まれてきたが、おそらく、その加護も切れただろう。他人は、このことを不幸と言うかもしれない。でも、俺は、時読みが役目から解放されたことを幸せだと思う」

 

 

 ――あぁ、彼のこころが見えればいいのに。

 

 

 りぃんと、こころの奥でなにかが鳴った。今このときばかりは、己の拙さがもどかしい。
わたしは知らず乾いた唇を舌先で少しだけ舐めて湿らせた。

 

「わたしが、いなければ……とは思わなかった?」
「御子がいなければってことか?」
「そう」

 

 彼が口を開くその瞬間まで、わたしの心臓は壊れそうなほど早鐘を打っていた。答えを聞きたいのにどこか少し怖くて、聞きたくないような心地もする。不思議な感覚だった。
 そうして、マルスが息を吸った気配がした。

 

「思わない」

 

 りぃん、りぃん、と音がする。

 

「お前と出会えたことは俺にとっての幸福だ。だからお前と出会わなければよかったなんて思わないし、出会ったことが間違いだとも思わない」

 

 その音は徐々に大きくなっていく。それなのに不快じゃない。
 坂を上っている。家が近い。もう何度も行き来した道。わたしたちの家。
 帰れば、きっとフィリが出迎えてくれるだろう。今この胸の内をそっとマルスに打ち明けてもいい。ただ、わたしは確かに理解していた。

 

 

 ――あぁ、これが。

 

 

しあわせのかたち

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