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本編前・本編中/ヴァズ

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​在りし日の面影

「ヴァズ、ここにいたのか」

 

 音もなく獣から人型に成り、隣に立つ男。彼の名はケット。亜人の中でも比較的数の多い猫の亜人だ。
 彼とヴァズは、使命で結ばれた同志であり、表舞台に立つことのない影である。年も近しいふたりは行動を共にすることも少なくない。

 

「あの男、どうだった?」

 

 ケットの言う「あの男」とは、雨が降り続く村に住まう若者のことだ。
 ヴァズは、件の若者の特徴のない平凡な茶の髪と瞳を脳裏に浮かべながら、あの雨の中に漂う土の匂いの中にわずかに混じる、宿命の血の臭いを思い出していた。
 ヴァズが頷けば、ケットは痛ましげに目を伏せた。

 

 件の若者は影の衆の血を引く者であった。かつて衆の中から血を分けた一族の生き残りだろう。彼の中にはもうほとんど獣の性は持っていないが、それでもその血が持つ呪いじみた宿命からは逃れられないらしい。
 彼ほど遠い繋がりならば他にもいようものを、引きがいいといか、なんと言うか。彼はどうやら“持っている”らしい。

 

 人と獣を行き来できる血も、薄まった。当たり前だ。神話の時代からはもう、長い時が過ぎ去ったのだから。
 そんな時代に生を受けたヴァズは、人型に成っても言葉を操れない。そうするように喉や声帯ができていないからだ。そういう意味において、彼は完全な人型に成れない未熟な半端者なのだろう。
 しかし、影の衆でそれを責める者はいなかった。それは半端であろうと人と獣を行き来できる存在がすでに稀有であり、また、彼が何物をも寄せつけぬだけの強さを持っていたからだ。

 

 ケットは物言わぬヴァズの目線を、不躾に追った。高い岩肌の隙間から見下ろす谷底にある寂れた村、そこで暮らすひとりの少女。彼女は長い耳を持つ兎の亜人だ。

 

「……あの子が、お前の特別か」

 

 それを放ったのがケットでなければ、言外に、お役目に影響はないのかという非難を含んでいるのかと疑っただろう言葉。ヴァズは曖昧に鼻を鳴らした。

 

 * * *

 

 ある時ヴァズは足に怪我をして、この薄暗い谷へと迷いこんだことがある。それは彼がちょうど12になった時分だった。
 怪我をした理由は、よく思い出せない。おそらく、くだらない理由だったはずだ。それこそケットとなにがしかの競争でもしていたときにどこか高い場所から落ちたとか、岩に強か打ちつけただとか。
 しかし悪いことは重なるもので、そこへ雨が降り出した。熱が出ていたのだろう、大層苦しく、意識もはっきりしていなかったように思う。

 

 そうして目を開けたとき、最初に視界に映ったのは、年若い娘の顔だった。

 

 ヴァズは目を疑った。熱で頭がやられたかとも思った。彼女は知らない娘だった。艶やかな黒髪が美しい、長い耳が目を引く――兎の亜人。
 彼女は手ぬぐいを絞っていた。それをヴァズは呆然とじっと見つめた。視線に気がついた娘が横たわるヴァズの方を振り向く。

 

「……あぁ、よかった。気がついたわね」

 

 娘は薄茶の瞳を嬉しそうに細めて、微笑んだ。それから水気を絞った手ぬぐいで優しくヴァズの患部を清めた。

 

「あなた、ずっと寝込んでいたのよ。喉が渇いているでしょう。今、持ってくるから待っていてちょうだいね」

 

 返事は期待していない様子で、ひとり娘は獣へ語りかけてきた。娘に言われて、ヴァズは猛烈な喉の渇きを覚えた。体が重く、気怠い。空腹だ。吠えることも億劫で、わずかに鼻を鳴らして答える。
 そっと背をひと撫でしていった手のぬくもりは、ただひたすらに優しかった。

 

 娘は水と少しの食糧を手に、すぐ戻ってきた。
 ヴァズは痛みも忘れて夢中で水を飲み干していく。するとどうしたことだろうか、小さくはない器を空にしてもなお喉の渇きは消えない。ヴァズは不満だった。

 

「その渇きはすぐには消えないわ。しばらく辛抱なさい」

 

 そう言って、代わりに娘は牛の乳に浸したパンの欠片をヴァズの前へ差し出した。いかにも消化に良さそうだが、量も申し訳程度しかなく、やはり物足りなさがある。血を失ったのだから、この体には肉が必要なのだ。こんなものしか食べられないほど自分は弱っていないと、ヴァズは憤った。
 後にして思えば、あのパンは彼女にできる精一杯だったのだと分かる。日の当たらぬこの谷はお世辞にも裕福ではない。おそらくあれは彼女の少ない食事の一部を分け与えられたもののはずだった。

 しかし、そんなことは知らぬヴァズはこの憤りのままに噛みついてやろうかと思案した。空腹で気が立っていたのだ。
 威嚇するように喉を鳴らせば、何を思ったのか、娘はヴァズの背を赤子にするかのように、ポン、ポン……と宥め始めた。
 それは、常に強者として扱われ、敬われてきたヴァズにとってこれ以上ない侮蔑であるはずだった。けれどもそのとき、名状しがたい感情が膨れ上がり、彼はそれをよしとした。
 この、愚かなまでにやさしい手を、振り払うことなどできなかった。

 

 

 いつの間にか、うつらうつらとしていたらしい。不覚である。
 ヴァズから少し離れた位置に火が焚かれており、寒くも暑くもないように気遣われていることが伺えた。本来であれば、ヴァズのその毛皮をもってすれば暑さ寒さなど関係ないのだが、そのときの彼には必要な気遣いだった。

 

 窓から見える月の様子からして夜半のようだ。
 いないだろうと高を括って見回せば、しかしどうして、娘はそこにいた。驚いて起き上がるが、娘はそれに気づかない。どうやら月明かりで針仕事をしているらしい。兎なら夜目も利くだろうが、人型でいるのなら人の身に合わせるべきだ。人は夜に眠るものなのだから、今、娘は眠るべき時である。

 ヴァズは怪我をした足を悪化させないように歩を進め、娘を咎めた。娘は大きな瞳を丸くして驚いたが、すぐに「わかったわ、ありがとう」と苦笑して寝床へ戻っていった。ヴァズは再びまどろみに身を任せた。

 翌朝、ヴァズは寝入っている娘の横をすり抜けて、娘の家を出た。

 

 

 少々時が過ぎた頃、怪我が大方治ったヴァズは再び谷へ足を向けていた。娘へ礼をするためである。
 果物のひとつでもくれてやればよかろうと、いくつか見繕ったものを籠に入れて咥えた。おつかいをする幼子のような情けない姿をあまり知り合いには見られたくない。さっさと行って帰ろうと思っていた。

 

 娘は、谷を少し外れたところにある小さな洞窟にいた。そこは岩肌に這うようにして背丈の短い草が生えた場所だった。奥には水場があり、時たま、ぴちょん、と水滴の音がする。奥に行けば行くほど恐ろしく暗く、目を凝らしても見通せないが、水は清かった。

 

「あら、誰かと思ったらあのときの狼さん。どう、お元気?」

 

 ここに谷の人はほとんど来ないから驚いたと、娘は微笑んで、それから無遠慮にヴァズの喉元を撫でた。これ以上好きにされては堪らないと、ヴァズは人型を取る。音もなく変わりゆく姿を見て言葉もない娘の様子に、少し胸がすく思いがした。

 

「……あなた、古の血を引いているのね」

 

 たっぷりと間を取って、娘はなんとかそれだけを言った。声が驚きと感動に震えていた。
 薄暗がりの中で、薄茶の瞳がきらきらとヴァズの赤い瞳を覗き込む。どこまでも吸い込まれていくような心地がして、先に目をそらしたのはヴァズだった。代わりに娘の手を取り、問いかける。

 

『――名、は?』

 

 * * *

 

 娘はアイフェと名乗った。アイフェは15で、ヴァズよりも3つ年上だった。彼女には生まれたときからの許婚がおり、あと2年したら結婚するのだと言う。

 

 ヴァズは声が出せない。しかし言葉を解さないわけではない。相性の良い相手ならば、思念のようなものを送ることだってできた。ただし、これは身体的な接触を必要とした。使い勝手が悪いので、重宝するというほどのものではなかったが、この時ばかりは有難かった。

 

 そうして、ふたりは度々その洞窟で逢瀬を重ねた。逢瀬、と言っても色気のあるものではない。けれども、やはりあれは逢瀬という言葉が似合いだったように思う。
 ヴァズはもっぱら聞き役だったが、他愛のないことも、不安や悩みも、互いに話せないことなどなかった。

 

「この谷はね、色々な場所から追い出されてきた亜人たちの村なの。姿かたちが違うというのは難しいわね。わたしの曾祖母も偏見や悪意に耐えかねて、安住の地を探してここにたどり着いたそうよ」

 

 たどり着いた先は日の当たらないやせ細った土地だったけれど、と口元を歪めてアイフェは言う。それから決まってこう続けた。「どうかあなたが人と獣、両方の姿を取れることを谷の人に知られないようにしてちょうだいね」と。

 

 アイフェが言うには、この谷には凝り固まった選民思想が蔓延っているらしい。かつて人里を追い出された記憶がそうさせるのだろう。コンプレックスと相まって非常に厄介な匂いがした。面倒事はうんざりだ。その話をされるたび、ヴァズは大人しく頷いていた。
 谷に来るときは獣の姿で。いつの間にかできていた暗黙の了解だった。

 

 

 しばしの時が経った、ある月のない夜のこと。
 アイフェは珍しく気落ちした様子で洞窟に現れた。ヴァズはそっと彼女に触れる。

 

『どうした?』
「……いいえ、なんでもないの。心配してもらうようなことは、なにも」
『ひどい顔だ』
「あなたの言葉の方がひどいじゃないの」

 

 アイフェはヴァズを抱きしめ、彼の首元に顔をうずめた。彼のこの白く硬質な毛並みも、出会った頃より立派になっている。こうも顔を擦りつけては少々痛いだろうに、彼女は一向に構わないらしかった。
 アイフェは何事か呟いた。

 

『なんだ』
「あのね、婚姻の日取りが決まったの」

 

 まるで息の仕方を忘れたような気分で、ヴァズはそのとき、正しく己の鼓動が止まったのを自覚した。
 それは遅かれ早かれ来ることが分かっていたはずのことだった。それなのに、ずっと先のことのように、いや、むしろ今この時が永遠に続くような気さえしていたのだ――おそらく、お互いに。

 

「ヴァズ……カスヴァズ……」

 

 アイフェのか細い声が、何度も、何度も、彼女の狼の名を呼ぶ。
 なぜ、獣には彼女を抱きしめてやるための腕がないのだろう。己の4つ足を恨む日が来るとは夢にも思っていなかった。ヴァズは堪らなくなって、不文律を破ることを己に許した。
 人型に成ったヴァズは、その腕で愛しい少女を掻き抱く。この時ばかりは、彼もこの2本の腕はそのためにあるのだと信じて疑わなかった。

 互いに、もう言葉は必要なかった。あるのは互いの体温だけ。痛いほどに抱きしめて、それからたった一度だけ、口づけをした。
 アイフェの瞳から、ひとしずくの星がこぼれ落ちていく。ヴァズはそれを馬鹿みたいに、ただ眺めていた。

 

 向こうから騒がしい足音がする。ふたりはどちらともなく身体を離して見つめ合った。ふたりとも、もう分かっていた。ヴァズはさっと獣の姿に成って駆け出した。痛むこころと思い出を置き去りにして。

 

「アイフェ!」

 

 カンテラの灯りが洞窟の秘密を暴いていく。ヴァズは足を止めなかった。
 あぁ、きっとこの男が彼女の夫になるのだろう。彼がアイフェを幸せにしてくれればいい。理性でそうは思っても、地面を抉る爪に入る力を緩めることはできなかった。
 ふたりとも分かっていた。もう二度と会えないのだと。それでも、別れの挨拶なぞできやしなかった。

 

 * * *

 

 それから5年の月日が経った。ヴァズは19になっていた。
 時が流れても、まだ谷へ行くことはできていなかった。けれど、その日ヴァズは谷へと足を向けていた。
 ――アイフェが死んだと、伝え聞いたのだ。

 

 谷は変わらず貧しいままのようだった。
 ヴァズは人目を避けて、岩肌の間を縫うようにして歩を進める。影の衆の技術でかき集めた情報によれば、彼女の墓は、あの洞窟の側にあるらしい。

 洞窟も、一見した様子では変わりはないようだった。その変わらなさに、あのときのまま、時が止まっているかのような錯覚さえ覚える。
 けれども足を踏み入れたら、記憶と違うところがあったら、なにかが壊れてしまいそうで、重い足を引きずり歩く。

 

『……あれか』

 

 彼女の墓は、ひっそりとそこにあった。シンプルな石の墓標に飾り気のない「アイフェ」の文字。間違いない、谷の墓だ。けれどその隣に彼女の夫の墓はない。情報では、夫の方が先に亡くなったはずだったのだが、どういったことなのだろう。

 物思いに耽っていると、背後から軽い足音が聞こえた。振り返れば、そこにいたのは幼い少女――アイフェに瓜二つの、兎の亜人。
 少女はぴょこんと跳ねて、それから小首を傾げた。ヴァズの赤い瞳を見て、大きな瞳をこぼれ落ちんばかりに見開く。

 

「……ヴァズ?」

 

 息をのんだ。
 なぜ、その名を。お前は誰だ。言わねばならない言葉はいくらでもあるはずなのに、ヴァズの足は縫い留められたかのように動かない。

 

「ねぇ、そうでしょう、おおかみさん? だって、お母さんからきいてたとおりの赤い目だもん。ね、ボクともおはなししてくれる?」

 

 少女の平凡な薄茶の瞳には、母親への思慕と、寂しさと、甘えがあった。ヴァズの宿命を負った赤い瞳には、後悔と哀しみがあった。

 

 ――もし、許されるのならば。
 幼くして両親を亡くした少女の、数少ないよすがとなろう。
 この、愛した少女の忘れ形見を守って生きていこう。

 

 この身のすべてを、己の名を呼ぶ、彼女の面影を持つこの子のために。

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