COMPAS
本編後/ブラン「繰り返す 繰り返す」ED
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あなたの唯一
暗い森で、あのひとに拾われて10年。
わたしは今日、15になる。
* * *
「今日のごはん何がいい?」
「えーとねぇ、寒いからあったかいのがいいなぁ」
「じゃあシチューにしようか」
ブランの答えにわたしは小さく勝利の拳を握った。シチューは大好物だ。こっそりと喜びを噛みしめていると、ブランの方がわずかに震えていることに気がついた。体調が悪いのだろうか? いや、違う。笑って、正確に言えば、笑いをこらえているのだ、彼という男は!
それに憤慨するとそれすらも可笑しいと言わんばかりに彼はさらに笑みを深める。ひどい! わたしがシチュー好きなの知っているくせに! というか作るのもわたしの役目なのに!
ふんすふんすと怒って――これがわたしの基本的な怒りかたである――いても本気では彼に怒りの感情を向けることはできない。
彼は、わたしにとっての唯一だから。
ブランは、わたしの恩人である。それも、命の。
なぜそんな大層なことになっているのかと言うと、偏に、森に捨て子として放置されていたわたしを拾って育ててくれたのが、この目の前のぼんやり大将ブランだったからだ。
でも、ブランは生きるためのことは何もできなかった。放っておいたら、それこそ知らないうちに死んでしまいそうなほどに何もできなかった。だから、わたしができるようになるしかなかった。
幸い、丘の下にある町の人たちは優しかった。わたしは色んな仕事を教えてもらって、どんどん覚えた。人間、必死になればできるようで、大抵のことはなんとかなった。運もよかったのだろうけど、捨てられているから差し引きゼロなのかも。女神さまは、優しいけど厳しい方だと言うから。
町にいる間、わたしは幸福だった。手を取って一から針仕事を教えてもらうとき、食事の作り方を教えてもらうとき、それは優しさに溺れるような心地がして、嬉しいのになんだかとても恐ろしかった。
そんなとき、傍にいてくれたのはいつもブランだった。彼はなぜか、わたしの哀しみに聡かった。たぶん、彼が哀しさを湛えたひとだからだと思う。
優しさが失われてしまうことが恐ろしくて堪らないのだとこぼしたわたしに、長い夜の過ごし方を教えてくれた。涙があふれて止まらないとき、夜の闇が怖くてしかたないとき、ただ傍にいてくれるひとがいることの幸福を教えてくれた。
彼がわたしにしてくれた唯一にして最大のこと。
それは、わたしの手を取って離さないでいてくれたことだ。
* * *
わたしはずっと、あの家の厄介者だった。
でもまさか捨てられるほど疎まれていたなんて思いもよらなくて、彼に拾われてからしばらくはずっと泣き暮らしていた――なんて格好つけて言ってみたけど、5歳でそこまで理解は、たぶんしてなかった。
可愛がってもらった記憶はほとんどなくても、殴られた痣がまだハッキリ残っていても、やっぱり母さん父さんが恋しくて、不安で、怖くて、泣くことしかできなかった。
きっといい子にしているから。だから。
だから、の先に続く言葉をあの時のわたしは見つけられなかった。それでもわたしはブランの伸ばす手を取りたがらなかった。それを取ったら最後、二度と戻れない不可逆の契約のように見えたから。
きっとなにかの間違いだって、母さんたちがきっと迎えに来てくれるって。だからそのときのためにこの手は取っちゃダメなんだって、そう思ってた。
ブランは辛抱強く待ってくれた。
わたしに何かを求めることなく、ただそこに在って手を差し出している。まるで凪いだ海のように静かだった。その静かさに触れるたび、どうしようもなく哀しく思えて、数年の後、わたしはついにその手を取ることにしたのだ。
「しょうがないから、一緒にいてあげる」
そんな小生意気な言葉に、ブランはそれはそれは嬉しそうに笑って「ありがとう」と応えた。それから、僕は不器用だからどうか助けてね、と。
そのとき初めて、この選択は間違っていなかったのだと確信したのだ。
わたしたちは不揃いなピースで、たとえ組み合わせてもきれいな絵はできあがらないけれど、それでも寄り添い合って生きることはできる。それは母さんと父さんを諦めることではなく、彼の隣にいることを選んだということだった。
そうして取ったブランの手は、冷たかった。
それはきっと彼の時間が止まっているから――彼の幸いが、すでに失われてしまっているからだ。そして、彼はわたしの中に失われた彼の唯一を見ている。
* * *
今日は決別の日だ。断罪の日だ。
彼がわたしを見ていないこと、それに甘んじてきたこと、両親のこと、すべてを清算する時が来たのだ。
暗い森で、彼に拾われて10年。
わたしは今日、15になる。
今夜のメニューはシチューだ。シチューはいい。食べればあたたかくなって、作るときには多少野菜が歪でも煮込んでしまえば分からない。
彼が最初にわたしに出した料理が、シチューだった。焦げついていて、お世辞にも美味しいとは言えないそれに、絆されまいと涙を必死になって堪えた。
それが懐かしくて、ブランはいまだにシチューがうまく作れないけれど、わたしはたまに彼にシチューを作って欲しいと頼む。
コトコト、コトコト。
シチューの仕込みを終えて、わたしはひとつ息を吐く。そう言えば、わたしが初めて作ったのもシチューだった。やはり美味しいものは作れなかったけれど、ブランは美味しいと言って完食してくれた。
日が傾いてきた――さぁ、時間だ。
前掛けを外し、外出の支度をする。向かう先は、門の近くにある警備隊の詰所。そこに、わたしの唯一がいる。
意外なことに、ブランは剣がそこそこ使える。それを活かして、警備隊なんてものに所属して生計を立てているのだ。
わたしはどんどん歩を進める。これは、これこそは不可逆の契約破棄だ。それをわたしは後悔しない。絶対、何度だってこうすることを選ぶだろう。
今からわたしは、わたしと彼の関係に終止符を打ちに行く。
忘れろなんて言わないから。
他のものなんて要らないから。
望むのはただひとつ。
「わたしをあなたの唯一にしてください」
――だからもう『わたし』を見ないなんて許さない。