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本編前/双子とザガン

――――――――――――――

FATHER​

 ゆらゆら、ゆらゆら、蝋燭の灯りが揺れる。
 肌を撫でる生暖かい風がまとわりつくようで、ひどく気味が悪かった。

 

「……ダメだ。私はあの子たちを置いていくことはできない」

 

 ずっしりと重い声音で男は言った。
 それはまるで夜の闇がにじみだしたような声だった。

 

「ならば俺はお前の気持ちが変わることを願っておこう」

 

 答えたのは鋼色の鳥――漆黒の瞳を持つ者だった。

 男は鳥が飛び立った先を睨みつけたが、背筋に走った悪寒にその痩躯を折りたたむ。咳こめば、ごぼ、と嫌な音を立てて喉から温かいものがせりあがってくる。我慢すれば辛いだけであることを知っている男は無感動にそれを迎えた。

 

 口を抑えた手を退ければ見慣れた赤。どす黒い赤。

 

 長い間、男は咳こんでいた。えづく体力もなく、力なくむき出しの床に倒れこむ。隙間から差し込んでくる光が夜明けを告げようとしている。

 服まで汚れてしまった、洗わなければあの子たちを怖がらせてしまう――そう、淡々と掠れた声で男は呟いた。なにもかもが淀んだその場所で、思考だけが冴え冴えとしていた。
 最近はあまり眠れていない。血で粘ついた口が気持ちが悪いだなんて感覚は、もうずいぶん前に失くしてしまった。男にとってそれはあまりにも日常だった。

 川で口を漱ぎ、上着を脱ぎ水面に放る。冬の時分に着るには薄すぎる布は水を含んであっという間に重くなった。

 

 ――帰らなければ。
 男は重い足を引きずるように歩き出した。


 * * *


「ねぇ、ザガン」
「ねぇ、お願い」

 

 合わせ鏡のようにそっくりなふたりの少女。
 幼い少女らは、舌っ足らずなしゃべりで一生懸命に鋼色の鳥を引き留める。けれどザガンと呼ばれた鳥は応えない。駆けようとした少女の片割れがぽてりと倒れた。ううぅ、と涙を大きな瞳に溜めこんで、ついには泣き出してしまう。

 

「ジャギャンのバカァァ」

 

 ――誰だそれは。
 ザガンはそう言いたくなるのを堪えた。果たして堪える必要があるのかと聞かれれば不明だが、このままでは流れに乗せられてしまうだろうことは明らかだった。それは彼の望むところではない。

 

「……泣くな」

 

 彼の声は静かだった。少女たちが大好きな父親に似ている優しい音だった。泣いていたふたりはパッと笑顔になる。ザガンは狼狽えたように一歩後ずさる。たとえ亀の歩みだろうと――いや、鳥の小さな歩幅であろうと、じりじり後退するのだ。

 

「逃げちゃダメよ」
「メッ、なのよ」

 

 ふくふくした指を一本立てて――正確に言えば立てようとして中指と人差し指の二本立ってしまっている――まるで子どもを叱るように腰に手を当ててふんぞり返る。反りすぎてひっくり返ってしまわないか心配になるほどだった。見れば見るほど、重い頭は難儀そうだ。

 

「お父さんをいじめないで」
「イシュたち知ってるよ」

 

 そのときの少女たちの形相ときたら、小さな鳥の息の根など簡単に止めてしまいそうなほど真剣だった。ザガンは再びじりじり後ずさる。

 

「……虐めてなどいない」

 

 ザガンはぼそりと呟いた。嘘だなんだと騒ぐ少女らを置いて飛び立つ。ざわりと羽を逆撫でる幼く澄んだ声が、ひどく耳障りだった。


 * * *


 新月の夜、鋼色の鳥は村はずれの小屋に降り立つ。
 あばら家のようなその小屋は雨がしのげるだけといった様子で、そこかしこから隙間風が入ってくる。無論、そこに床板などない。

 

「気は変わったか」

 

 ザガンは弱々しげに横たわる男に声をかける。
 男は発作が起きたばかりで、起き上がるだけの体力もないようだった。息も絶え絶えで、それでも男はザガンを睨む。その若草色の瞳にはけっして諦観の色はない。
 見上げた根性だ、と思う。同時になぜそこまで、とも。

 

「分からぬな」

 

 この男のことも、男の娘たちのことも。そしてなにより自分のことが。
 ザガンはまだ若かった。依代を得てから百と経っていない。

 

「分かっ……て、もらえ、ずとも……結構。契約は……せん。お、帰り……願、おう」

 

 人間はもっと単純で愚かな生き物だと思っていた。耳元で甘言を少し囁いてやればすぐに堕ちる、弱く醜い生き物なのだと。けれど目の前の男は契約の手を振り払ったのだ。
 不思議な気分だった。今まで感情がさざ波立つことなどありはしなかった。すべてが単調で、決まりきった世界しかないと思っていた。しかしその狭い世界は今にも死にそうな男にあっさりと破られた。

 

 ――知りたい、と思ったのだ。

 あの男が残り少ない命を燃やしてまで尽くすもの。彼を動かす理由。

 男を動かすのは愛する妻の忘れ形見、ただそれだけ。ザガンは益々分からなくなった。この渇望にも似た感情が何であるのか。

 本当に、不思議な気分だった。


 * * *


 少女たちはいつも一緒だった。
 母は産後の肥立ちが悪くふたりを生んで亡くなったらしいが、少女らがそれで寂しいと思うことはなかった。なぜならいつだって隣には片割れがいてくれたし、ふたりには優しくて世界で一等大好きな父がいる。それだけで十分だった。

 

 少女たちは知っていた。
 自分たちが【魔が刺した子】と呼ばれていることを。

 双子は忌むべき存在。悪魔が紛れ込んだ証。だからこそ自分たちと父親は村から遠く離れたところにしか住めないのだと分かっていた。けれどふたりはそれを不満に思ったことなどなかった。

 不快なことばかり言ってくるうるさい村のオバサンは嫌い。村の男の子たちも嫌い。女の子たちもくすくす笑ってばっかり。何がそんなに楽しいのって聞いてもいじわるして教えてくれない。でも、たまに同情っぽい目を向けてくる人が一等嫌い。そんな場所に住むより、今の生活の方がずっとずっと幸せだ。

 

 お父さんとわたしとあなた。家族だけの世界。それ以外なんてひとつだって必要ない。
 ふたりはそう確信していた。

 

「お前たちはお母さん似だね。お父さんは嬉しいよ」

 

 そう言って優しく撫でてくれるお父さんの大きな手が好き。
 お母さんの顔は覚えてないけど、きっとそれはとてもいいことなんだ。

 

「アルテの顔、お母さんに似てる?」
「あぁ。そっくりさ」
「イシュも? イシュも?」
「ふたりとも瓜二つだよ。自慢の娘だ」

 

 ふたりはお互いの顔をまじまじ見つめた。

 

 ――これがお母さんの顔。
   そしてわたしの顔(そしてあなたの顔)

 

 * * *


 ――あらゆる絶望から生まれた悪魔は、そのとき初めて光を見た。


 ある、闇が深い夜だった。
 他のすべてを夜のマントが覆い隠してしまうように月ばかりが煌々と輝いている。何かを隠すにはうってつけの夜だった。

 男はその夜も苦しんでいた。頻繁に起こる発作は長い間内臓を傷つけ、彼の体から体力を奪っていった。ごぼりと嫌な音を立てては流れ出ていく赤色。刻々と死が迫ってくる。
 命の暖かさは、きっとこの身に流れる血潮の温度と同じだけ。ならば残された時間はあとどれだけあるのだろうか。男はやるせなさに唇を噛もうとして、それさえも満足にできないことに気がついた。もうまぶたが自分の意志で動かない。

 

(私は――、私まであの子たちを置いて逝くのか……!)

 

 男は全力で咆哮した。唸った獣のような耳障りな音しか出なかったが、それが彼の哀しみだった。そして、やがて「それ」は訪れる。まるで最初から決まっていたように、喜劇じみた舞台のように。
 ふわりと舞い降りた鋼色が月の光を弾いた。漆黒の瞳が男を見下ろす。

 

「お前は、生きたいか」
 ――生きたい。
「それはなぜだ」
 ――あの子たちをふたりぼっちにさせるわけにはいかないだろう。

 

 声は出ていないのに、不思議とふたりの間に意志は通じていた。
 男は命を削るようにして叫ぶ。それはもはや言葉ではなく雄叫びだった。鳥は鷹揚に頷くと、大きく羽を広げた。

 

「ここに契約は成った。お前の願いを叶えよう」

 

 体の不調など感じさせない身軽さでもって、おもむろに男は起き上がった。閉じていたまぶたを開ければ、そこにあるのは一対の漆黒。

 鋼色の鳥は、冷たい床で息絶えていた。


 * * *


 あの晩、三人だけの楽園は終わりを告げた。秋に入ったばかりの頃だった。
 小さな楽園に乱入者が現れたのだ。それは人語を解す鋼色の鳥。夜な夜な現れてはふたりの大事なお父さんを苦しめる悪いヤツ。でもちょっぴり不器用で優しい不思議なモノ。

 

 やがていつにも増して厳しい冬が来た。
 父は変わらぬ笑顔と優しさでふたりを抱きしめてくれたけれど、その手は冷たく、目の下にある隈は消えない。日に日に血の気は失せ、食べたものもすべて戻してしまう。ふたりは必死に父の冷たい手を握りしめた。

 

「お父さん」
「なんだい、イシュ」
「アルテも」
「おやおや、今日はふたりとも甘えん坊だな」

 

 苦笑したって、父がその手を振り払わないことをふたりは知っていた。両脇から抱き着いて、あっためて、笑う。笑いあう。どんなときだって片割れと父と一緒なら辛くない。三人でいればいつだって幸せ。

 

 ――ねぇ、
「だいすきだよ、お父さん」

 

 ふたりは賢かった。だからこそいつも笑顔でいた。それが父の望みだと知っていたから。
 ふたりは予感していた。駄々をこねても、我が侭を言っても、泣いても叫んでもどうしようもない別れが来ることを。

 

 それはきっと、飲み込まれそうなほど黒い夜にやって来る。


 * * *


 小屋と言うよりあばら家と言った方がしっくりくる家の奥。そこで蠢く淀みたち。ふたりにとってそれは馴染み深く慕わしいもの。畏れる必要なんてどこにもない。

 

「ザガン?」
「どうしたの?」

 ――ねぇ、どうしてそんなに驚いているの?

 

 父の姿をした悪魔はどこか気まずげに身動ぎした。

 妙に人間臭い仕草だった。

 

「アルテたちって、ザガンとおんなじなのよ?」
「イシュたちあくまなの」

 

 村の人はみんなそう言うの。ふたりが笑えば、ザガンはたじろいだように一歩下がる。まるで恐ろしいものから逃げるかのようだった。絶望しか知らない悪魔はそのまま踵を返してその場を去ろうとしたが、袖を引く力に留められる。

 

「大丈夫よ」
「こわくない、こわくない」

 

 頭には手が届かないからか、少女たちはゆっくりと冷たい手を握った。じんわりと伝わる熱が歪な悪魔の欠落を埋めていく。

 

「アルテたちね、知ってるのよ」
「ザガンは、ほんとは優しいって!」

 

 パッと花咲くような笑みに、ザガンは押し黙った。少女たちが何を言っているのか理解できなかったのだ。ザガンは少女たちを振り払い、背を向ける。

 

「俺と共にいるということは俺と契約するということだ。契約をすればお前たちの片の瞳は黒く染まり、契約を解かれることがあれば死に至る。お前たちに利はないだろう」

 

少女たちは首を傾げる。

 

「でも、その【けいやく】をすれば一緒にいられるんでしょ?」
「じゃあイシュたちザガンと【けいやく】する!」

 

 ――ねぇ、ザガン。一緒にいよう?
   だいじょーぶ。三人なら、きっと幸せだよ。

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