COMPAS
東京郊外の小高い丘にひっそりとある一軒家。
ただの住まいにはやや大きなそれには入り口がふたつある。その内のひとつ、表向きの大きなガラスの両開き扉には「OPEN」の札がかかっており、ガラスにはPrivate Detective Agencyの文字が浮かんでいた。
――そう、ここは「時読」探偵事務所。
事務所の名前である「時読」は、「時流を読む」とも、創始者の名前をもじったものとも言われているが、実際のところ定かではない。
今の事務所こそ日本に構えているが、由緒正しき英国からやってきた、数えるのも億劫になるほど連綿と続く家柄である。
時読探偵事務所オーナー……の息子であるマルスは、事務所にある皮張りのソファに寝っ転がって溜め息を吐いた。
「ちょっとマルス、少しは真面目に働きなさいよ」
「真面目にったってなぁ。誰も来ないだろ、こんな怪しげな事務所」
渋々持っていた雑誌をローテーブルへ投げ、体を起こす。
マルスに刺々しい視線を寄越すのは彼の従妹のフィリである。大学2回生のマルス、その4つ年下であるフィリは、この春休みが開けたら高校へ入学する。
彼女の両親は健在だが多忙な人たちであるため、幼い頃からマルスの家に入り浸りだった。マルスの感覚的には口煩い妹のような存在だ。
妹と言えば、実はマルスには血の繋がった正真正銘の妹がいる。いるのだが、今は両親とともに英国にある祖父母の家へ帰省していた。身体が弱い妹は、どうしてか日本の水が合わないようで、そういうことはままあることだった。
しかしながら「なんかその方がいいってピンときちゃった~」なんてふざけた理由で日本へ居を移したうちの両親はいったい何を考えているのか。それを言うのならフィリの親もなのだが……、マルスは再び溜め息を漏らした。
「ほら、依頼人が来るわよ。シャキッとなさい」
「……は? 依頼人って」
何のことだ、と言葉を継ぐ前にカランカランとドアベルが来客を告げる。
マルスは内心で軽く舌打ちをする。彼の母や妹、フィリは異様に勘がよく、時折こうして未来を言い当てるような物言いをするのだ。
「失礼、探偵事務所はこちらで合っているだろうか」
「えぇ、確かに間違いございませんよ――ご依頼ですか?」
マルスは苦々しい気持ちで放り出していた雑誌を素早くラックへ押し込み、にこやかな笑みを浮かべる。
客は質のいいブラックスーツに身を包んだ背の高い男だった。長い黒髪はきっちりと後ろで束ねられ、冷ややかな切れ長の瞳も相まってなんともお堅い。眼鏡が男の持つ「いかにも」インテリな雰囲気を強調している。
話を聞くために席に案内すると、男へフィリが紅茶を差し出した。彼女の澄ました顔が今ほど憎らしかったことはない。
「ところで、貴方はずいぶんとお若く見える。事務所のオーナーは?」
「オーナーはしばらく留守にしてまして、私が代理としての権限を預かっております。若輩でご不安かもしれませんが、仕事はきちんと行いますので」
そこまで言うと、男は指を頤に当て、思案するように目を伏せた。
揺れるカップの水面に男の黒い影が映る。
「いえ……、むしろ貴方がたくらいの年齢の方が都合がいいやもしれない」
何が、とマルスが聞き返す間もなく男は語り出す。
曰く、今回の依頼は「護衛」であると。
「は……、護衛? えっと、ストーキングの被害にでも?」
「違う。いや、大きなくくりで言えばそう違わないのだろうが……」
まだ名乗っていなかったと言って、男は一枚の名刺を差し出した。マルスがそれに目を通している間に、彼は傍に控えたフィリにも手渡していた。律儀な人だ。
「タレント事務所エモルティア……?」
「って、なんでそんなボケッとしてるのよアンタは! エモルティアって言ったら業界最大手じゃない!」
「いや、あんまり興味ないし」
「興味のあるなしの問題じゃないわよバカ!」
小声でのやり取りだが、この距離だ。男は目の前の青年たちの声が聞こえているだろうに、眉ひとつ動かさない。とんでもないポーカーフェイスだと舌を巻く。
「いい? アンタにも分かるように言ったげるわ。エモルティアは双子アイドル『しらゆき』の所属事務所よ」
「えぇっ、しらゆきって、『あの』しらゆき?」
マルスが驚きの声をあげると、フィリは鷹揚に頷いた。
ブランとネージュという男女の双子アイドルユニット『しらゆき』と言えば、幼い頃からモデルとして活躍し、本格的に芸能界入りしてからは不思議ちゃんなキャラクターで一世を風靡した、今や世界的アイドルである。日本どころか、英国にだってその名を知らぬ者はいないだろうと言わしめる、それほどの知名度を誇っていた。
「えっと、その、エモルティアがすごい事務所なのは理解しました。そしてザガンさん、あなたは事務所メインマネージャー。貴方が直々に依頼へ来たということは……」
嫌な予感がする。
マルスは頭を抱えた。こういう時の勘はよく当たるのだ。フィリなどには「野生の勘」などと言われてからかわれるが、結構便利だったりする。テストの山を張ったりするのに。ただ、今だけはこの予感が外れてくれるよう真剣に祈った。
――けれど、現実は残酷だ。
「そう、頼みたいのは『しらゆき』なのだ」
入っておいで、と男が携帯越しに語り掛けると、再びドアベルが鳴り響く。
野生の勘がガンガンと警鐘を鳴らす。まるでドアベルと二重奏だ。マルスは苦笑を通り越して諦めの境地だった。
男には腹を括らねばならない時がある。もうどうにでもなーれ、などとは思っていない。思っていないと言ったら思っていないのである。
「……こんにちは」
「あの、よろしくお願いします……?」
ふたり分の足音を追って視線を向ければ、びっくりするほど似合わないサングラスに、帽子から零れた特徴的な白い髪。そしてこの聞き覚えのある年の割に幼い声。これでは隠す気があるのかないのか分からない。
護衛対象をいつまでも立たせておくわけにはいなかいと、マルスが彼らにも椅子を勧めれば、やはり丁度のタイミングで紅茶が注がれる。
マルスがフィリを恨めし気にねめつけると脇腹に肘が入った。マルスの従妹は力は弱いが、少々ドメスティックである。
「あのね、探偵さん。わたしたち初の単独ライブ……」
「脅迫、されてるんだ」
紅茶にふぅふぅと息を吹きかけるところを見るに猫舌なのだろう。白い頭がふたつ同じ動きをしているのが、なんともおかしかった。
しかしなんでそんな大事をエージェントでも警察でもなく、こんな片田舎のうちに。言いたいことは山ほどあった。だけれども、察するに、まぁ、それができない理由があるのだろう。
マルスは何度目か分からない溜め息を吐いた。
あぁ、間違いなく、これは、面倒な案件になる。
次回へつづく…?