手渡されるもの
チャレンジ完遂まで、あと3日。
最前線を駆ける覚悟のない者に、武人は敬意を抱かぬからです
――イアル
『獣の奏者』 上橋菜穂子
著者の上橋菜穂子さんは大学の教授をなさりながら、作家業も行っています。2014年には国際アンデルセン作家賞(※国際アンデルセン賞は長年児童文学に貢献したと認められた方に贈られるもの)を受賞した方で、NHKで『精霊の守り人』シリーズが実写ドラマにもなったのでご存知の方も多いかと思います。 本屋大賞を取った『鹿の王』の方が、あるいは大変多くの国の言葉に翻訳され、アニメにもドラマにもなった『精霊の守り人』シリーズのほうが有名かもしれません。ですが、わたしの中では、この『獣の奏者』がいちばんなんです。
『獣の奏者』は全4巻からなる小説で、前2巻はアニメにもなりました。なぜ前2巻なのかというと、これはもともと2巻で完結していた物語だったからなのです。続編の希望が多く寄せられながらも、上橋さんの中ではもう語り終わった物語であった『獣の奏者』の続きは書けないものでした。けれども、アニメを制作するにあたり、この世界について語り、物語の中では語らなかった部分までを理屈をつけて他者に説明するという行為をして、再び、上橋さんの中で主人公たちが生き始めたのだと言います。そうして後2巻が生まれたのです。前2巻で主人公エリンの少女時代を描き、後2巻では母となったエリンとその家族、彼女の選んだ生き方を描いています。
この4冊が生まれたのはわたしにとって大変な幸福でありました。この『獣の奏者』は、わたしのバイブルとも言うべき物語です。 語りたいことがありすぎて、返ってあまり多くの言葉が出てきません。何度読んでも涙があふれてきます。母を幼くして亡くしたエリン、彼女の生きる先には多くの困難が待っています。人という獣を取り巻くしがらみの網の目はあまりにも多く、彼女を拘束する……。エリンは、多くのものを背負うことになった賢く気高い女性です。物語の語りがとても静かで、エリンもクールに見えますが、彼女はとても強い情熱を内に秘めた女性でもあります。 わたしはこの物語の「静かさ」がとても好きです。この静かさは、物語の根底に流れる「悲しさ」や「虚しさ」、それに対する「諦め」でもあります。ですが、エリンはその身の内に冷めない熱を持っています。それは知りたいという情熱と、抗う意思です。 ……本当に、うつくしい生き様です。 目を閉じれば、静かに、けれど強く、見つめてくる緑の瞳が見えるよう。ティーンズ向けならば物語の中心の軸のひとつに据えられてもおかしくない恋愛部分は外伝『刹那』にしかなく、2巻と3巻の間で気がついたら10年くらい経っていて、主人公が結婚していて、しかも子供までいる――びっくりどころの騒ぎじゃありません。最初、旦那さんが誰かもハッキリしなくて、「あのひと」以外だったらどうしよう!? なんて思ったこともありました。でも、それでいいのです。上橋さんがどこだったかで話していらしたように、『獣の奏者』本編で恋愛をやってしまったら、それは別の物語になってしまっていました。彼らの恋……と呼んでいいのか分かりませんが、それは雨のように静かに、いつの間にか降り積もったもので、あるべきところに収まったというのが彼らの形だったんです。本編で突然、夫婦になっていても何の違和感もありませんでしたね。びっくりしましたよ。 エリンの夫のイアルは、簡単に言えばエリンに似た雰囲気のあるひとです。エリンは作中で「冬の木立のような」ひとだ、と表現していますが、これほど美しく的確に彼のことを表した言葉が他にあるでしょうか……。「冬の木立」――わたしはその言葉で、静かで、寂しくて、生を感じられない殺風景な枯れ枝が並ぶ風景を想像しました。けれど、冬の先には春が待っているんです。冬は、耐え忍ぶ季節です。耐え忍び、春を焦がれる季節なんです。命が皆、眠る季節でもありますが、それは死ではありません。内に秘めているだけ。深読みかもしれません。けれど、それでわたしは「あぁ、彼もまた、熱いものを内に秘め、耐え忍ぶことのできるひとなのだ」と改めて強く感じたのです。本当に、イアルさんはカッコいい。寡黙で強い。しかも賢い。何このひと、ただのイケメンじゃないですか……しかも辛い過去もどっさりあるというおまけつき。
内容を語ろうとすると緻密にそれぞれが絡み合っていて、長くなるので、とても好きなエリンのセリフを最後に。
おかあさんね、そういう人になりたいの。松明の火を、手渡していける人に
――エリン
人の営み、生き物というくくりで見た、その網の目のように広がった、連綿と受け継がれてきた繋がり。人の一生は、なにかを為すにはあまりにも短いけれど、自分の残したものは、いつかの誰かに手渡すことができるのだと。人がなにかを知りたいと願い続けるのなら、この火はきっと、絶えず燃えていくだろう……。 こんな醜い、どうしようもない人という獣なんて滅びるなら滅んでしまえばいい。自分ひとりの身でどうにかなるなら死んで責任を取る、そう言っていた少女のエリン。まだ幼い息子ジェシを残しては逝けない、ならば自分の為したことを見届けようと決めた、母となったエリン。彼女の中に、人なぞ滅んでしまえばいいと思った冷たさはまだ残っているけれど、それでも、彼女の変化が、わたしは無性に嬉しかったのです。
※文庫版の書誌情報です。単行本がこれより以前に刊行されています。
上橋菜穂子.獣の奏者I 闘蛇編.講談社,2009,357p.
ISBN:978-4-06-276446-9
上橋菜穂子.獣の奏者II 王獣編.講談社,2009,480p.
ISBN:978-4-06-276447-6
上橋菜穂子.獣の奏者III 探求編.講談社,2012,551p.
ISBN:978-4-06-277344-7
上橋菜穂子.獣の奏者IV 完結編.講談社,2012,497p.
ISBN:978-4-06-277345-4