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そして少年は“いのちのこたえ”を得る

時は 待たない

それはすべてを 等しく「終わり」へと運んでいく。

『 PERSONA3 THE MOVIE 』

「死ぬってそんなに怖いこと?」

 ――#1 Spring of Birth

春。青い空にピンクに染まる桜並木。

夜。大きな月と緑色の空、棺桶が並び立つ"影時間"。

まだ、彼は恐れるべきを持たない。

「なんで、あなただったんですか」

 ――#2 Midsummer Knight's Dream

夏。偽りの真実と青い海。

機械の乙女とデュオスクロイの片割れ。

こんな時間がずっと続けばいいのに。

「死ぬなんて明日目が覚めないってだけ。それだけじゃないの」

 ――#3 Falling Down

秋。執着とまごころ。

少年は、機械の乙女は、宣告者は、思い出す。

「そうして俺は、生きることを始められたんだと思う」

 ――#4 Winter of Rebirth

冬。再生の時。

死は静かに、けれど確かに降り積もっていく。

世界は終わりに近づいて。

それでも少年は、生きるため戦いへと赴くのだ。

「おめでとう。奇跡は、果たされた」

そうして、春。瞳に映る桜吹雪。――"約束の日"。

「生きろ」と言った少年は、乙女の膝上で目を閉じる。

◇◆◇

はい、今回は『PERSONA3』の映画について語りまくります!

もう語りたい箇所が多すぎて困っちゃいますね。

もうね、序盤に「Burn My Dread」がかかった瞬間にハッとして口を手で覆ったよね。

主人公の結城理の音楽プレーヤーから音が流れている演出も神がかってるし、そうやってプレーヤーからBGMが流れるとき、理くんが目を閉じたり、窓の外へ視線を外すのも”分かる”って感じで。

春の彼はまだ、耳も目も、閉ざしてるの。

こころを閉ざしてるの。

夏以降、こういった描写が減って、秋になるとイヤホンを分け与える存在ができて――つまり、こころを閉ざさず誰かと共有したいと思っているということ――でも、また傷ついてひとりになって閉ざして、そうして、冬に生まれ直す。

この一連の流れが美しすぎて、もうどうしたらいいのか。

分からなすぎるので、とりあえず時系列無視して好きなところ語っていきますね。

「わたし、影時間を失くすために戦いたい。

 ……お父さんの意思を継ぎたいから」

こちらは序盤のメインヒロイン(?)岳羽ゆかりが修学旅行先の京都・鴨川で先輩であり因縁のある家のお嬢様でもある桐条美鶴へ言ったセリフ。

わたし、ここのシーンのゆかり、すごい好きなんですよね。彼女も幼少期から色々あって、仲間たちと過ごしているこの一年間も怒涛の勢いで色々あるわけで。そして、彼女自身には(ペルソナの素養と、ほんの少し容姿が優れているという点以外に)さしたる力はなく、状況に押されるがままに翻弄されるしかなかい、か弱い存在だった。

その彼女が、真実を受けとめたうえで自ら選択する。これほど尊いことはないでしょう。

ゆかりは強がりで、ずぅっとひとりで立ってきた女の子でした。彼女は言葉がキツイときもあるし、無謀なときもあるけど、それは弱い自分を隠すための仮面として彼女自身が作り上げてきた「岳羽ゆかり」の姿なんだと思うんです。

そしてそのことは、たぶん、特別課外活動部の他の仲間たちも同じ。少しずつ見えてくる素顔は、まだ幼い。誰もが、己の望むように強くはなれなくて苦しんでいる。

特に美鶴はゆかりと「父親」というファクターにおいて、セットとして考えられたキャラクター造形をしていると思われるので、美鶴の矜持と強さ、対する脆さと幼さは、確かにゆかりにしか解せなかったでしょう。

ちなみにこの「父親」というファクターは非常にやっかいなのですが、これはまた後ほど。

鴨川での決意は、映像としても美しいシーンです。

「だからさ……だから、一緒にいられるんじゃねぇの。

 失くさないように大事にできるんじゃねぇの……っ」

「死ぬって、『もう会えない』ってことなのね」

さて、お次はお調子者ムードメーカーお手上げ侍・伊織順平、順平の想い人であり敵陣営の探索要員でもあるチドリのセリフです。

冒頭で挙げた「死ぬなんて明日目が覚めないってだけ。それだけじゃないの」はチドリの言葉なんですが、彼女の変化がね、そりゃあもう素晴らしいんですよ。

順平は馬鹿なんです。すぐ手は出るし、ヒーロー願望は強いし、馬鹿だし、他の特別課外活動部のキャラクターと違って明確な軸がない。

順平って「普通」なんです。平凡で「特別じゃない」存在。彼だから出るセリフがあるし、彼の存在が物語にグッと深みをもたらしていると言ってもいいと思います。

そんな「普通」の彼を「特別」にする少女がチドリです。

彼女が順平の軸になるんです。

チドリとの戦闘シーン、ものすっごく好きで。どれだけチドリに攻撃されても、順平は決して彼女を傷つけないんです。そのことが、どんな言葉よりも雄弁に、どれほど彼がチドリを大事にしているかということを教えてくれる。

応えるチドリの震える声、その演技がまた素晴らしく。

カッとなるとすぐ手を上げてしまっていた順平が、自分の意思で「絶対に傷つけない」と決めた少女。誰よりやさしくしたいと願った相手。

彼のまごころを受け取ったチドリの選択が「順平を生かす」なの、もう本当に視聴者を殺しにかかっているとしか思えない。あぁ、順平のペルソナ覚醒タイミングがいじられなくて本当にほんっとうに、良かった……

他のみんなもできればゲーム準拠が良かったけど、尺の問題(たぶん)じゃしかたねぇよな……

チドリの所属している「ストレガ」の面々(リーダーのタカヤ、ブレインのジン、癒し手であり斥候でもあるチドリの三人)は、不安定でコントロールの利かないペルソナ、他人よりも限られた命、そうなるように他者に弄られた境遇(=自分で選択したものではないことによる理不尽)、という条件により「何にも、己の命にさえ執着などしない。瞬間(いま)さえ良ければ、他者も己もどうでもいい」という考えに至るわけだけど、無意識に目を逸らしているものもあると思うんですよ。

だって、彼らは明確に「仲間」を区別している。

他のペルソナ使いが存在していても(己の邪魔をしない限り)構わないけれど、あえて仲間に引き入れようとかは、決してしない。ストレガはその境遇を誰かに分かってもらおうとか、受け入れてもらおうとか、そんなことは考えていなくて。なぜって、それは自分たちが受け入れられると思っていないからで。

それがとても寂しいことだと、思いたくないんじゃないかな。だから、自分から切り捨てたことにする。己は、切り捨てられたのではないのだと。

絶対に裏切らない、境遇を同じくする仲間、それ以外は要らないと。

ところで、なんでチドリもジンも召喚器使ってるのにタカヤだけ「うぬぅん!」って苦悩しながらペルソナ召喚するんだろう……あの人だけだよ……

どう考えても予備動作としては隙も大きくなるから合理的じゃないんだけど、確実に彼のモデルになっているだろうキリストの持つ「受難」「苦悩」の側面をうまく表現しているから何ともいえないんだよな、あれ……

ペルソナ3は、非常に強くイエスキリストを意識していて、というか主人公=キリストという構図になるんですが、ビジュアル的にキリスト役を担うのはタカヤなんですよね。

表面的に、いや、社会的な”キリスト”はたぶんタカヤだったんです。教祖様とかもしていたし、預言者的立ち位置でね。

でも、キリストは、メシアです。

メシアは日本語にすると「救世主」なわけですが、その救世主としての役割、そしてキリストの持つ「贖罪」と「再生」の側面を担ったのが主人公です。

っていうかラストの屋上での理の手の組み方、意図的だよね!? メサイア(メシア)と同じ組み方だし、理=メシアとして同一化を視覚的にも図ってるよね!?

先程少し述べた「父親」というファクターも、恐らくキリスト教から来ているものだと思うんですよ……深読みしすぎですかね……

でも、あえて彼女たちが喪失する存在を「父親」という役割に被せてきたのには意味がありそうなんですよね。

ええと、つまりですね、女性キャラが喪失するのは「父親」つまりキリスト教でいう「神」です。そして男性キャラたちが喪失するのは自らを慈しみ育んだ「母親」=「聖母マリア」という構図になります。

でも、主人公はメシアでありながら(そして父なる神へ至る道程にありながら)デスを身に宿し再誕させたことで「母」の側面も持っている気がしますね。中性的な外見も相まって。

ちなみに仲間の中でも真田明彦は例外というか、彼は親が縁遠いのでもっとも近しい「家族」が「兄」であり「半身」である荒垣真次郎なんですよ。このふたりの関係と物語性とペルソナ3のストーリーも大変にエモーショナルなんですが、とりあえず言わせてください。真田先輩、牛丼プロテインボクシング馬鹿とか言ってごめんなさい! 映画見たら、ちょっとばかりバトルジャンキーだけど普通にかっこよくて頼れる先輩でした! 本当にごめんなさい!

いやホント、仲間たちの初期ペルソナがギリシャ神話からきているのもまた上手いバランスなんだよな。ゆかりのイオ→イシスも、順平のヘルメス→トリスメギストスも熱いし、いやむしろ熱くないキャラなんていないんだけど、真田先輩と荒垣先輩の話は泣けるから。頼む、ふたご座を調べてくれ。

こほんこほん。

この作品には「裏切者」つまりユダ役もいますがそこはネタバレ防止ということで割愛。

話を戻しますとね、理は10年前のムーンライトブリッジでの事故で一度「死んで」いて――つまり、肉体的に生きてはいるけれども、本当の意味で「生きて」はいなくて、この物語が紡がた春に彼は「生まれ直し」て、生きることを始めたわけです。ここで憎いのが、彼がすでに一度「再生」を果たしてしまっているという点なんです。

ご存知の通り、イエスキリストは一度死んで蘇りますが、この物語上のメシアである彼はもうその「蘇り」を済ませてしまっているということになります。

だから――だから、もう一度は、ないんです。

Spring of Birthの終わりの理の吐息とともに漏れた微笑み。冗談抜きであれは死人が出ると思いますが、それから徐々に見せるようになった笑顔、特にWinter of Rebirthで見せる、やさしい笑顔にわたしは感慨深くなりました。涙ぐみました。いやガチで。

もう本当に彼はこの一年でとても大人になったし、辛かったこと悲しかったこと全部抱えたまま、それでも愛おしいのだと、慈しむような笑顔が涙腺を刺激してしかたないんです。

映像美で言えば、Winter of Rebirthはフルスロットルで素晴らしかったんですが、やはりエリザベスとのデートで理が振り返るシーンと、エンディング間際の屋上のシーンはどうあっても外せません。

彼はあんなにも柔らかく笑える子だったんだと、そうやって笑えるようになったことが嬉しくて、胸がいっぱいになって、だからこそ結末が苦しくって。

でも、彼はあの選択に、自分のたどり着いた「こたえ」に満足している。

この映画全編を通して提示される「いのちのこたえ」は「誰かを生かすこと」――このことはこれ以上ないほど明確に示されています。

荒垣先輩も、チドリも、理のお母さんも、そして主人公である理自身も、自分以外の誰かを生かすことを選んだ。

キリスト教にはたくさんの「愛」を表現する言葉がありますが、その中のひとつ「アガペー(agape)」は、時に自己犠牲さえ伴う愛です。

この「誰かを生かすこと」というこたえを考える度、アガペーが頭を過るんです。

真実の意味で生きた人だけがたどり着ける「いのちのこたえ」――いつだって、大切な誰かの日常を守りたいと願うのは、そのすべてを愛おしいと思うことと同じように感じます。

愛おしいから。かけがえのないものだから。

そのためならば、この身を掛けても。

そんなの残された側は堪ったもんじゃありません。そんなことは望んでいないんです。望んでいるのは共にいる日常です。でも、残した側は満足してしまっている。泣いても叫んでも、もう戻って来ません。エゴです。そんなものはただのエゴ。

だけれども、それは、おぞましいまでに美しい。

わたしは悔しい。声が枯れ果てるほど叫ぶような残される側の遣る瀬無さが分かるのに、同時に、どうか主人公の選択を否定しないで欲しいと願ってしまう。

どれほど愛しいと思っていたか、理の表情から分かってしまうから、彼の心情が痛いほどに伝わってくるから。――そして、彼は決して「報われなかったわけではない」のだと知って欲しいから。

それから終わりにかけて彼の目線で描かれる世界のうつくしいこと!

やさしくて、柔くて、穏やかで。

悔しさに涙が滲むほど、その日常は愛しさで溢れてる。

 人は結局ひとりでしか生きていけない

  ――違う

 つながりなんて持たないほうがいい 失ったときに傷つくだけだから

  ――違う

 どんなに大切なものでも消えてしまえば何も残らない だったら初めから何も要らない

  ――違う!

 何も必要ない

  ――違う

 何も欲しくない

  ――違う、俺はつながりから逃げたりなんかしない……! 

cv.石田彰とcv.石田彰の会話という不思議場面がこの映画には何度かありますが、上記のセリフはそのうちの一つですね。

これはある意味で自己との対話であり、迷いを振り切るための儀式でもある。

これは一見、すべてを「どうでもいい」と死にも生にも執着しなかった結城理が、喪失の恐れを抱きながらも、それでも逃げないという選択をする場面だけれども、実際はたぶん違う。結城理は「すでに選択している」。

主人公・結城理と13番目のアルカナ・デスには呪いじみた因縁を持ち、同一であるとさえ言える存在。

これはこの映画において顕著に表現されるところであり、望月綾時というキャラクターが理のセリフに被せるように彼の言葉を代弁することからも分かる。そしてその関係性が、ラストバトルで逆転することも、また然り(これがまた熱いんです)。

つまり、上記のやり取りは、主人公がすでに掴み取っていた意思を察知して、反語的に後押ししているだけ。かつて理自身が陥っていた呪縛を、ひとつ、ひとつ、自分の手で「それは違う」と否定していく過程にこそ意味がある。

だから綾時は「否定させるため」に、言葉にしているのだと思う。そう考えると、あの言葉たちには不思議と頑なさはなく、否定を重ねることを喜んでさえいるような気もしてくる。

この物語の最終章でもあるWinter of Rebirth序盤では、景色は悉く色彩を失い、どこか灰色めいた雪が街を覆いつくしていきます。これは「死」だと思います。雪がゆっくりと、でも確かに降り積もり、地面(これは大地のイメージとしての「生」)を隠していく概念としての「死」です。

世界が緩慢な死を迎えようとしている中、画面では連なる信号が揃って赤になります。これは赤信号では「立ち止まる」ので、歩みを止めることを意味します。

ペルソナ3では人生のことを旅と表現しており、歩みを止めることはイコールで旅路の終わりです。旅の終わりは、死です。Winter of Rebirth序盤ではかなりの時間を割いて、死を描いています。

季節が冬というのも示唆的でしょう。冬は命が眠る季節ですから。けれど、冬とは同時に春を待つ季節であり、耐え忍ぶ試練の時でもあります。試練がなにかは言うまでもありませんね。そう、ラストバトルです。

春に生まれ、夏に育み、壊れ、秋に再起し、冬に再び絶望する。

初めてこのシナリオ全体を俯瞰したときには、なんて辛い物語だろうと思ったものです。映画は原作ゲームよりも冬の絶望がより深く描かれていて、痛々しいほど。

ゲームの主人公はプレイヤーがそれぞれアルカナを持つキャラクターたちとコミュを通して絆を育み、つながりを得ます。けれども映画の理にコミュは(少なくとも視聴者の目に見える形では)存在しません。ちなみに、映画の尺やら何やらの問題もあるでしょうし、あれもこれもと欲張らずに一点集中で結城理の”いのちのこたえ”を描いたのは個人的には大当たりだと思っています。

ただコミュがないだけでコミュキャラクターたちは描かれていますので、彼らはあの世界に生きていて、もしかしたら理とコミュをしているかもしれないし、コミュとはまったく別の物語を紡いでいるかもしれない。

それでいいんです。

絆は、目に見える形を持ってはくれません。でもそれは確かに、意思を強く持つための力をわたしたちに与えてくれます。理が築いた絆は、彼にニュクスと立ち向かう勇気とユニバースの力を与えました。

どんな奇跡だろうとユニバースの前においては、それはすでに奇跡ではない。

彼が得たこたえは、誰かを守りたいと思うこと、失うことが怖くてもつながりから逃げないこと、相手がいなくなってしまったとしても絆は決して無意味にならないということ。

つながりを得ることで恐ろしいことは格段に増えたけれども、こたえを得た彼だからこそ、恐れ慄きながらも進んでいくことができた。

そして、わたしたち視聴者は「置いて行かれた」者です。彼は誰も彼もを置いて、たったひとりで行ってしまった。主人公はイコールで視聴者、ではなくなったのです。

最初から、何を考えているのかよく分からない主人公ではありました。でも、ラストバトルのあの得も言われぬ不安感は、なんとも形容しがたい。

物語が、ふっと我々の手から離れて、結城理が持っていってしまうのです。彼が決着をつけにいってしまうのです。心情としては、はさながら魔王城でひとり立ち向かう勇者に「待って」「いやだ」「帰ってきて」と声をかける、ついさっきまで当事者だったはずの傍観者、つまり結城理の仲間たちと同じ立ち位置です。

「すぐ行くから待ってろ……!」

ラストバトルで、ひとりユニバースの力を手に入れた理に、順平が叫ぶ。このセリフで、わたしは「あぁ、色々あったけど理と順平ってちゃんと友達だったんだなぁ」と思ったんです。なんか感動しちゃって、もうこの後はずっとべそべそ泣きながら観てました。

そうして戦いが終わり、奇跡は、機械の乙女アイギスの流す涙によって、果たされたことが表現されます。なんて気障で、美しく、周到な伏線でしょうか。ここまで来たらもう大人しく泣くしかありません。

あれはぜひ体験してみていただきたい。

彼らとの一年間は、きっと忘れられない記憶になりますよ。

最後に。

この素晴らしい一年間に出会えたこと、そしてこの長くて仕方ない文章を読んでくださった方がいらっしゃることに感謝します。

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2019.7.15 誤字脱字等の修正

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