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永遠は、信じたその瞬間に存在する


どれだけ寂しくとも、否応なく、変わっていく。


はい!!!!!!!

昨日は『アイドリッシュセブン』7周年記念イベントについて熱く――長く――語りましたが、今回は本編5部感想です! キャラごとにここ好きポイントを語っていると日が暮れるので、あくまで物語性にのみ注力して冷静に語るように心がけますね。



5部感想






*ネタバレ注意







まず全体的な話から始めましょう。

今回の5部全体に「終わり(≒永遠)」という大テーマが敷かれていましたね。

それに連動して活躍するキャラクターに偏りがあって、たとえば4部でメインを張ったナギや、序盤からの匂わせに一段落ついた大和、もともと話題の多いMEZZO”(特に壮五)は控えめに、陸と天を中心に作品の中核となるストーリーを大きく動かした印象です。


今回フォーカスされたのは「きょうだい」

天と陸、環と理、三月と一織、セトとナギ、モモと姉、岡崎事務所の社長兄弟に月雲プロの社長兄弟、6周年ストーリーの伊藤兄弟……『アイドリッシュセブン』には多くのきょうだいが登場します。

今までも「家族」の物語は多く語られてきましたが、そこでひとまずの決着が見られたのは「千葉志津雄-二階堂大和」「逢坂壮志-壮五」「八乙女宗助-楽」にあるような「親と子」の関係でした。(いずれも一人っ子なのは狙っているのでしょうか……すべてに母親の介在がないのが空恐ろしい……)

唯一4部では「セト(兄)-ナギ(弟)」という関係が描かれましたが、彼らの「支配-被支配」の構造は親子関係に近しいものを感じます。

それと同時に、ノースメイアの兄弟は和泉兄弟との親和性も高く(有能な弟とコンプレックスを抱く兄という構図はあえて重ねていると思う)、4部がノースメイア王室の物語だったのは、「親と子」の物語から「きょうだい」の物語へつなぐ役割を果たしていたためかもしれません。

総じて家族の物語でもあるので、共通したところが根底にあるような、ないような。ひとりでは家族になれないので、「他者とのつながり、衝突」みたいなところかもしれませんね。

でも、これはあくまで個々のエピソードでしかないんです。


なんというか『アイドリッシュセブン』は、今まで、「主人公がめちゃくちゃたくさんいる群像劇で、その主人公ひとり一人の物語には片が付くけれど作品としての結末が描かれていなかった」作品だったんですね。

これの大きな原因として伝説のアイドル「ゼロ」の問題があります。


ゼロは一世を風靡したソロアイドル。

彼のプロデューサーは九条鷹匡、作曲家は桜春樹。

完璧なアイドル。それでいて、どこか親しげ。

スキャンダルは一つもなく。

たった3年、活動して姿を消した。誰にも、何も、告げず。


現状開示されている情報はこれだけです。

ほぼ全てのデータが空白、詳しく存在しないことによってユーザーに対し「伝説」としての存在感を増しているわけです。すべてが謎のまま各々が思う「完璧なアイドル」を当てはめてもらう――まさに沈黙は金。効果的な引き立て方です。

しかし、彼の残した時代に終止符を打つには、彼の残した呪縛を解く必要がありました。


この呪縛というのは実は明確に形があります。

ゼロのプロデューサーを務めていた九条鷹匡という男性です。


彼は自分のアイドル・ゼロを失うという――彼の言うところの「裏切り」に合い――正気の部分で次から次へとゼロを超える人材を漁ったり育てたりする一方で、無意識下でゼロを超える人材が現れないように排除しようと動いていました。

彼のまめまめしさといったらもう、言葉もないですよ。

妄念の塊というか、ホント今すぐ精神科にかかってほしいとしか言いようがない人なわけですが、5部では彼の深い哀しみや苦しみがユーザーのそう遠くない未来に訪れるかもしれないと、彼はファンの成れの果てなのだと、示されました。


TRIGGERがミュージカル「ゼロ」を演じたことで晒された九条鷹匡の罪は「作り手側でありながらアイドルに永遠を望んでしまったこと」。


誰もが望む、だからこそアイドルが人間であることを知っている作り手だけは望んではならないこと。

永遠を望まれないアイドルも、永遠を望まれ続けるアイドルも、永遠を望まれなくなってしまったアイドルも、きっと誰もが苦しい。

生々しいほどの苦悩と哀しみ、そこから救われたいという願いと、その不幸せを認められない弱さと。矛盾する気持ちが心を引き裂いていく。

人はきっと、「そんなものはない」と思いながらも、心のどこかでずっと終わらない永遠を求めている。不安だから。恐ろしいから。絶対に信じられるものが欲しくなる。

宗教にも似たその役割をアイドル(=偶像)が担うわけですが、『アイドリッシュセブン』はアイドルは偶像ではなく人間であるとする作品です。人間を、成長し変わっていく、移りゆくものとして誠実に描き続けた作品です。

であれば当然アイドルにも終わりがあって然るべきだと、この一瞬に同じものは一つとしてなく、永遠とは、永遠を望んだその瞬間のことを言うのだと、永遠を願う瞬間を積み重ねていくことだと。そう、描いたのではないでしょうか。


わたしにも覚えがあります。

今、この時が永遠だと理解する瞬間を過ごした記憶があるんです。永遠でないことくらい知っていて、それでも、これこそが永遠だと確かに思った記憶が。

『アイドリッシュセブン』には、あの時と同じ「永遠」がありました。

わたしが感じたあの永遠は確かにあったのだと、肯定されたような気がしました。

きっと、わたしたちは永遠を知っています。

永遠を重ね続けるその奇跡を、手放す寂しさを、愛おしさを、感謝を、知っています。


そうして終わりを描くことで永遠を描いたわけですが、個人的に巧いなと感じたのはゼロの扱い方です。

長い時間をかけて描いてきた物語の中でユーザーの思う「ゼロ」像が育ってしまっている中でゼロを明確に描くのには大きなリスクがある。

これを回避するために作中ではゼロは語る口を持ちません。

完全に過去(≒死者)として扱うことで「他者というフィルターを通したゼロ」のみを登場させ、彼の残した言葉も表面上は再現できてもその真意は分からないようになっており、そのことはミュージカル「ゼロ」をプロデュースする九条鷹匡が何度も「分からないんだ」と口にすることで強調される。


そこへ七瀬陸――双子という属性を持ち、九条鷹匡にゼロに似ていると言わしめたアイドルである――によって、ゼロの心情のひとつの解釈がもたらされます。


ゼロはひとりだった。

でも、七瀬陸はひとりではない。


七瀬陸には、天という兄が、大切なメンバーが、彼のプロデューサーが、マネージャーが。いつだって彼をひとりにはしない。この広いステージの上、それがどんなに心強いことか。

余分なフィルターが一切ない彼の指摘でようやく、本当にようやく、誰もがゼロもまた人間であったことを思い出す……


ラスト数話は本当に手に汗握るというか、緊迫感がありましたね。

丹念にかけられた多大なプレッシャーからの解放と少しの喪失感、そして続きへの渇望。読み終えた時は最高に気分がよかったです。


最後に

陸のモンスター級の訴求力の話とか、個人的な推しである環の周辺が不穏なままなので、秋に始まる6部への期待と不安でドキドキではありますが……

ドタバタ大騒ぎしても、向かう先はきっとハッピーエンドだと信じています!


毎月本当に楽しかったです。6部も楽しみ!!!!!!!

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